☆☆ BB's Blog ☆☆ KV 2

ぼくの名前はBBです。「悪いヤツ」と呼ぶ人もいます。でも、犬には「いいヤツ」だと思われているかもしれません。これでいいのだ。バカボンのパパなのだ。ちなみに、バカボンもBBみたいですが、ぼくはバカボンとは別人です。

7 September 2008

聖書は女性を差別しているか

米国ではNRA(National Rifle Association、全米ライフル協会)を批判して銃規制を主張したら大統領になれないとか、マスコミにしても、たとえば過激なフェミニストのご機嫌を損ねちゃ大変だから言論表現にけっこう気をつかうのだとか、およそ<自由の国>のイメージとはかけ離れたウワサを、ぼくもいろいろ耳にしたものだ。歴史は段々に良い方向へ進歩しているというようなことを、最近どこかで書いたような記憶があるけれど、ある方面では、人間の歴史はかえって退化しているようなことがあるのかもしれない。

もちろん、ぼくは女性への差別に賛成するわけがない。人間が文明なるものをつくり出した古代より、歴史は様々な差別で満ちあふれている。そういうものはひとつひとつ改善されるべきものであったとおもう。実際、改善されて来たはずであった。しかし、その一方で、また新たな差別というものが生まれ、人の世をさらに複雑にしてしまうようなことにもなった。時には、差別されていた側の人間が、まるで差別する側に変わってしまったかのように見えることもある。ぼく特有の感覚なのかもしれないが。

聖書をまじめに読み始めて、いわゆる「科学的でない」記述以外で現代人がつまずくとすれば、たとえばイエスのこんな言葉じゃないだろうか。
あなたは、わたしと何の関係があるでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。(ヨハネ2:4、新改訳)
ここで「女の方」と呼ばれているその女性は、イエスの母親すなわちマリアである。今でも儒教的というか教育勅語的というか、ウヨクのいう「日本固有文化」の影響を受けた日本人なら、こんなイエスの言葉をちらっと見ただけで憤慨し、キリスト教への嫌悪感をさらに強化するのかもしれない。彼らの誇るその「日本固有文化」の中で、女性差別ばかりか、いかに多くの醜い差別が、21世紀の現在においてもなお健在であるかというその現実を無視しながら。

イエスはアラム語で話していたといわれるが、新約聖書はコイネーと呼ばれるギリシャ語で書かれた。それが当時のローマ帝国の共通語だったからだ。アラム語にしても、ギリシャ語にしても、イエスの言った「女の方」に相当する言葉に、女性差別の意味合いは含まれていなかった。たとえ母親への呼び方としては当時でもやや不自然であった可能性があるとしても、それは教育勅語ふうの道徳とは別次元の問題になるだろう。聖書から何かを学び取ろうという覚悟で読む人は、必ずその人に必要な天からの声を聞くにちがいない。最初からキリスト教の揚げ足を取ろうという魂胆で読む人には、聖書は決して何も語らないものだ。

さて、上で引用した聖句が英語ではどうなっているか見てみよう。
Dear woman, why do you involve me? My time has not yet come.(New International Version)

女の方、なぜわたしを巻き込むのですか。私の時はまだ来ていません。
日本語になりにくい dear などを使っているから困ってしまう。仕方ないから上で引用した新改訳聖書の表現をそのまま借りて訳してみた。この英語訳は、1970年代にアメリカの出版社が世に出したNIVと呼ばれる聖書で、さすが60年代に始まるウーマン・リブ発祥の地らしく、聖書の翻訳にさえ米国のたくましい女性たちの存在が反映しているようだ。

それはともかく、イギリス人の英語に多大な影響を与えた欽定訳聖書(The Authorized Version)は、1611年に出版されて以来、多くのクリスチャンに読み継がれ、400年後の現在でもこの訳がいちばんいいと言う英語圏の人は決して珍しくない。ぼく自身も、これまで10種類を超える英語訳聖書を見て来たが、結局いつもこの欽定訳に帰ってしまう。この訳には単なる文学を超越した神々しい魅力があるようにおもう。その欽定訳で問題の箇所を見てみよう。
Jesus saith unto her, Woman, what have I to do with thee? mine hour is not yet come.(The Authorized Version)

イエス言ひ給ふ『をんなよ、我と汝とになにの関係(かかわり)あらんや。我が時は未だ来らず』(大正改訳聖書)
日本語訳は、1917年に世に出た聖書の訳をそのまま引用した。明治元訳聖書と呼ばれる翻訳にしてもそうだが、英語の欽定訳聖書の影響が強く見られる訳であるから、そのまま対照させても違和感がない。しかし、母親に向かって「女よ」と呼ぶのは、さすが男尊女卑伝統の日本文化にあっても、かなりドッキリした人が多かったのじゃないだろうか。

英語で woman といえば、ぼくはジョン・レノンの歌を思い出したりもする。
Woman, I know you understand
The little child inside the man
Please remember my life is in your hands

女よ、君には理解できているはずだ
男の中に小さな子どもが住んでいることを
僕の人生が君の両手の中にあること、忘れないで
米国のウーマン・リブ運動の闘士たちは、家事と育児に専念しなければならない女性たちを狭い家庭から解放し、男のように広い社会で自由に働く権利を求めていたらしい。しかし、彼女たちの目指したものは本当に自由だったのだろうか。ウーマン・リブに燃えた女性たちの中には、聖書の神が He(つまり男性)であることにさえ反抗して、まるでニッポンのネットウヨクのように激しくキリスト教を非難する者たちまでいたという。

ぼくはできれば家事と育児に専念できるような専業主夫になりたかった。ユニオンジャックかパディントンの絵のついたエプロンをして、土曜日には台所でBBCラジオの Woman's Hour を聴きながら夕食の準備をしたかった。聖書は確かに男と女を区別している。しかし、聖書は女性を差別しているだろうか。社会の塵で心の中まで汚れてしまったような男たちは、なぜかエリート社会では特に目立つようだ。そんな男のようになってしまった女は醜い。そのような女にならないことを、創造主は女たちに願っているような気がする。


【参考】英語の欽定訳聖書は、ウィリアム・ティンダル(William Tyndale)の翻訳の影響を強く受けています。ティンダルが聖書を英語に訳した当時の英国では、ローマ・カトリックの支配下にあった教会が庶民に聖書を読むことを禁じていたのです。聖書を読むことができたのは、ラテン語に堪能な聖職者たちくらいでした。オックスフォード大学で学んでいたティンダルは言語習得に優れていたらしく、ギリシャ語、ラテン語ばかりか、フランス語、ドイツ語、スペイン語、イタリア語、そして旧約聖書のヘブル語も自由自在に扱えたそうです。彼は庶民が自分で聖書を読むことができるようにと、ラテン語訳聖書ではなく原典から英語に翻訳しました。そのために権力者たちの怒りを買い、火刑によって殺されたのです。

生前ティンダルは、教会のお偉いさんに向かってこう言っていました。
If God spare my life, ere many years I will cause a boy that driveth the plough shall know more of the Scripture than thou doest.

もし神が私を生かしてくださるなら、数年も経たぬうちに、鋤をつけた牛をひく少年のほうが、あなたよりもずっと聖書のことを知るようにして見せましょう。
ぼくはティンダルが1526年に出版した英語訳聖書をもっています。きょう引用した箇所がその訳ではどうなっているかと見れば、
Jesus sayde unto her: woman, what have I to do with the? myne houre is not yett come.
となっていて、やはりほぼ欽定訳聖書と変わらないことがわかります。現代のスペルとはかなりちがっていますが、そのおかげで当時のティンダルの発音が聞こえて来るような楽しい英語になっています。ついでに、彼が翻訳した原典で同じ箇所を見てみましょうか。
λέγει αὐτῇ ὁ ἰησοῦς, τί ἐμοὶ καὶ σοί, γύναι; οὔπω ἥκει ἡ ὥρα μου.
ギリシャ語ですから、やはりチンチンプンプンですね。もちろんぼくもティンダルとは大違いで、学生時代にギリシャ語を叩き込まれたはずなのですが、今では音読することはできても、辞書なしではほとんどチンチンプンプンです。いつか専業主夫になって、じっくり原典で聖書を読むことができたら、どんなに幸福でしょう。今はただ、天皇制のこと、民主主義のこと、動物愛護のこと、そういうテーマを日本語で考えるだけで精一杯です。


今日のビデオ:Woman
-- John Lennon

3 September 2008

鬱病という日本語


鬱病というのは今ではふつう「うつ病」と書くらしいが、どちらにしても日常語として使われる言葉ではないだろう。日本人にはいまだに精神科にお世話になるような人を危険人物か何かのようにみなす偏見が残っているようだから、鬱病患者の人たちも肩身の狭いおもいをしているのかもしれない。地方によっては今でも「キチガイ病院」という呼び名が残っていたりもするだろうか。

そういえば、1980年代に鬱の宮、じゃなくて、宇都宮の精神科病院で、入院患者が看護職員から金属パイプによる暴行を受け殺された事件があった。これがバレてから、その病院における数々の非道が明らかになったようだが、この事件はきっと氷山の一角にすぎないだろう。宇都宮に限らず、全国的に精神病患者への虐待が日常的に行なわれていたのだとおもう。これは何を意味するか。ニッポンでは、精神科の病院に勤務する職員たちの中にさえ、患者への差別意識に支配されている者たちがけっこう存在するということだ。これもやはりこの国の官僚たちが戦前から変わらずに継承して来た伝統の影響なのだろう。

精神科の病気ではないがハンセン病にしても、その患者たちを差別する社会構造を作るに指導的役割を果たしたのがニッポンのエリート官僚たちであった。驚くことに、その差別は戦後にもそのまま引き継がれ、やっとそれを反省するポーズを見せるようになったのは、それほど昔のことではない。人権という日本語が今でも日常語になっていないのは、このような官僚に支配されて来た日本社会の歴史のせいなのだろう。この歴史が、宇都宮の病院で発覚したような事件につながるのだとおもう。

鬱病のことを英語で depression と言う。この単語は depress(気分を落ち込ませる)という動詞から派生した言葉だが、英語圏の人にとっては日常的な単語であって、実際、鬱病というほどではなくても、ただ気分が落ち込んだ状態のときに使ったりもする。ちょうど right(権利)という英語が日常語であるように。

このような言語上の問題を考えるとき、ぼくは日本語特有の構造をおもって、やや気分が落ち込んでしまうことがある。漢字というもので熟語を作るしかない傾向にある日本語の世界では、「鬱病」も「権利」も「自由」も、なんだか日常の生活から浮いているかのような印象になってしまいがちだ。実際、「自由」という人間個人にとって非常に重大な言葉にしても、日常の場面でいきなり「自由」なんて誰かが言い出すと、多くの日本人は何か小難しい哲学の話でも始めるのかと感じて白けた気分になってしまうことだろう。

言葉は確かに文化を象徴している。言葉を使う人間が文化を作るからだ。精神病の患者を差別するなんてのも文化になるのだろうし、「鬱病」という日本語を使って政治家の精神状態を分析する精神科医に向かって「差別だ!」と騒ぎ立てるのも文化になるのだろう。日本語というのは実に難しい。それはニッポンの文化が難しいからだろうか。


今日のビデオ:Pablo Casals plays Bach

22 August 2008

生きるも死ぬも情感で


むかしのタバコ産業のCMなどを見て、「あの頃は良かった」などと懐かしむ人は、日本人には特に目立つようだ。この国の体制が喫煙の有害性を隠すようなことをずっと続けて来たのだから、いきなりどこでもあそこでもタバコが吸えなくなった現状に不満を感じる人は多いのだろう。その気持が理解できないわけじゃない。しかし、たとえ自分が個人的に好きなものであっても、社会的に見たときに良くないものであると判断されれば、素直にそれを認める。そういうのが常識にならない限り、ニッポンという国に本当の民主主義は育たないのじゃないだろうか。でなけりゃ、ただ不可解な平等主義がはびこるだけになってしまうようにおもう。

ニッポンのマスメディアの特徴は何かといえば、平等主義で情報を垂れ流しているにすぎないということになるだろう。平等主義というのは、中立主義と言ってもいいかもしれない。要するにプリンシプルなどないのだ。可能な限り多くの人に受け入れられるためには、「自分はこう考える」という主張を控えたほうがいい。可能な限り売り上げを伸ばして、可能な限りカネ儲けをする。それがニッポンのマスコミ業界のプリンシプルになるらしい。

平等だとか中立だとかと言えば、なんだか上等におもえるのかもしれないが、この国のメディアが流す情報なんてのは、たとえば刑事事件であれば、警察の記者クラブにおいて警察から発表された情報をただそのまま流しているにすぎない。警察が「自殺」と発表すれば、そのまま「自殺」として大衆に伝える。暴力団や右翼団体を使って邪魔者を消している支配層にとって、こんなに都合のいい先進国は珍しいだろう。

ぼくは若い頃から、ニッポンのことを先進国だとおもったことは一度もない。情感だけで生きているウヨクなら、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」(Japan As No.1)などと外国人から誉められりゃ、日本人としての誇りで胸がイッパイになって、たとえアメリカ人女性の巨乳が眼の前にズドーンと押し寄せて来ても、ゼーンゼン平気になってしまうのだろう。しかし、ぼくの場合、アメリカ人の巨乳を見て、アメリカ・アズ・ナンバーワンとも感じないが、ニッポンの経済が一流と誉められて、ニッポンが先進国だとおもったこともない。

英国のBBCでは、ずっとむかしから喫煙の有害性を国民に向かって訴えていたようにおもう。医学の専門家たちも、学問上の成果を庶民に理解できるように伝えていた。それを政府も応援していた。ところが、ニッポンではどうだったかというと、NHKが喫煙の有害性を真っ向からテーマにしたという話は聞いたことがないし、電車などに禁煙車の必要性を主張する市民運動に対して、この国では喫煙が個人の嗜好として認められているなどと反論しながら市民の要求を受け入れようとしなかったのが国鉄などの体質であったし、それに味方して市民運動を威圧するようなことをしたのがニッポンの政府であった。

今ではウソのような話になるのかもしれない。しかし、今やニッポンでも禁煙車が当たり前になったのは、欧米先進国の常識がそうなったから、同じようにしないとカッコ悪いとおもったからじゃないのだろうか。ニッポンの政治家には相変わらずヘビー・スモーカーが目立っていたのだから。

ぼくが公共の場における喫煙に反対するのは、自分の好みや趣味でやってるつもりはない。ニッポンの愚かな健康ブームなどを支持したことなど一度もない。特に長生きしたいともおもっていない。タバコを吸わない人間が40歳で死ぬこともあるのだし、ヘビー・スモーカーなのに90歳まで生き延びることだってある。だから喫煙は無害だと主張してよいのだろうか。驚くことに、真面目な顔でそのように主張する日本人が存在するのだ。

ぼくの友人で大学病院に勤務している医者が、ぼくの眼の前でタバコを吸い始めたので、「君は医者なのにタバコを吸うのか?」と訊いたことがあった。あの頃はまだテレビでタバコのCMが流されていた時代だった。彼は答えた。「医者をやってると、タバコ無しでは神経がもたないんだよ」。この国では医者までもが情感で仕事をしているらしい。患者をおもう情感ならいいのだけれど。

生きるも死ぬも情感次第。そんな生き方で死にたいのならそれはその人の勝手だ。しかし、この世で生きているのは、そんな人間ばかりではない。ガン患者もいれば、イヌやウサギもいる。野に咲く花もいれば、英国系イヌバカ紳士もいる。この地球という惑星がいつまで生命で満ちた青い惑星でいられるのかは知らない。それはひとの情感を超えた宇宙の歴史がいつか明らかにしてくれるのだろう。そのときはすでに人類が存在していなかったとしても。


今日のビデオ:For Loving Me
-- Peter, Paul and Mary (Live at the BBC, London 1966)

20 August 2008

喫煙をどうするか

どこで読んだのか忘れたけれど、ある嫌煙家がこんなことを書いていた。その人の尊敬する大学教授がヘビー・スモーカーらしく、心の中では禁煙してほしいといつも願っていながら、その教授を前にすると必ず黙ってしまう。尊敬する先生に対して偉そうなことは言えないという気持らしい。

これを読んでぼくは、相変わらず日本人だなあとおもったものだ。こうゆうのが日本人の「尊敬」だとか「思いやり」だとかの精神の基礎になっているのだろうか。今どき人と膝を交えて話をするという場面で、相手の承諾も得ずにスパスパと有害物質を発散できるような人を、どうして尊敬できようか。また本当に思いやりがあるのなら、尊敬する人であればこそ、喫煙の有害性を訴えるべきじゃないだろうか。

もしかすると、あれを書いた人は、その尊敬する教授から「タバコ吸ってもいいかね?」くらいのことを言われていたのかもしれない。それでも、「もちろん、かまいません」なんてふうに答えていたのだろうか。日本人ならその可能性は高い。教授にしても、Noと言える弟子の存在など最初から想定していなかったかもしれない。

ぼくはどんなことでも強制は嫌いだ。喫煙問題にしても、愛煙家に向かって嫌悪感丸出しで「迷惑だ!」みたいにやるのは、ぼくの信条に反する。タバコの煙に有害物質が含まれているのは、JTがどんなに頑張っても科学的な事実だ。JTという大企業は莫大な資金を使って欧米のタバコ会社を吸収するような愚かなことまでしている。ニッポンで未成年者や若い女性の喫煙率が激増したのは、米国のタバコ産業の戦略に従ったJTが、大蔵省のバックアップのもとに好き放題の広告を流すことができたからだ。

タバコを売る側の経営者たちは、自分ではタバコを吸わない。喫煙の恐ろしさを知っているからだ。アメリカのタバコ産業のお偉いさんの中には、「黒人だとか貧乏人だとかに売るだけだ」と、つい口を滑らした者までいる。それが経営者のホンネだろう。ニッポンでタバコ産業の発展を支えて来た大蔵省(今の財務省)の官僚にしても、自らタバコを吸う人間は珍しいはずだ。

こんな事実を知っても、さらに平然と人前でタバコを吸える人間がいたとすれば、ぼくにはその人を信頼することは難しい。信頼する人が事実を知らないのだとすれば、ぼくはその人に事実を伝えようと努力するだろう。それでも理解できない人であれば、もう仕方がない。ニッポンの特高警察みたいに拷問するわけにもいかないのだから。

【参考】本文中「科学的な事実」としてリンクしたYouTubeの映像だけでは説得力がないと主張する人がいるかも知れません。日本語で喫煙の有害性を明確に公開すると、なぜか削除されてしまうことが多いようです。こういう場合は、やはりイギリス人に登場してもらうしかありません。英語ですが、これを見て下さい。

http://uk.youtube.com/watch?v=0L-dXLhj-u4


今日のビデオ:SMOKE! SMOKE! SMOKE!

☆ アメリカにもこんなふうにテレビで宣伝していた時代があったのです。だからこそタバコ会社の社会的責任というものが問題視されるようになり、裁判で有罪を宣告された企業は、被害者に対して莫大な賠償金を支払うことになりました。その埋め合わせのためにせっせと米国産のタバコを買っているのが、アメリカ好きの日本人たちです。ミツグ君だけでなく、ミツグちゃんも珍しくないようです。

18 August 2008

日本のシンドラー?

きのう樋口季一郎のことを「日本のシンドラー」として紹介したけれど、「あれ?」とおもった人がいたかもしれない。「日本のシンドラー」といえば、普通は杉原千畝のことを思い浮かべるだろう。たしかにニッポンでは彼のほうがよく知られているのだとおもう。しかし、助けたユダヤ人の人数を問題にするなら、樋口季一郎のほうが多くのユダヤ人を救ったことになる。それなのにニッポンでは余り知られていないのにはわけがある。杉原は外交官であったが、樋口の場合は、陸軍少将という高級軍人の立場でユダヤ人を助けた。それゆえ国内においてはずっとそのことが隠されていたのだ。

有名人であることが必ずしもその人の価値を決めるわけでないことは、ニッポンのテレビ番組に頻繁に登場する人間などを見ても理解できるであろう。それは歴史上の人物においても同じだ。たとえば自由民権運動といえば、すぐに板垣退助のことを思い出す人は多くても、加波山事件の原利八、秋田事件の川越庫吉、群馬事件の湯浅理兵のことを誰がおもうだろうか。彼らはみな暴虐な明治政府に抵抗して人民の自由と権利を求めたために「重罪人」とされ、北海道に送られ極寒の中で過酷な労働を強いられながら、ついに獄死したのだ。
国をおもふ心のたけにくらぶれば
浅しとぞ思ふ石狩の雪
これは原利八が遺した歌である。明治天皇が教育勅語を発布した1890年、原は北海道の深い雪の中で倒れた。39歳だった。どれほど多くの日本人が、見せかけの立憲制と闘って自由民権の実現を願ったために国賊とみなされ、同じように国家の暴力によって命を失ったことだろう。

あれから百年以上が過ぎて21世紀に入ったというのに、この国の支配層は天皇制の讃歌「君が代」を学童や教師たちに強制しながら、高いところから人民を見下ろして愛国者を気取っている。国を愛するということは、どういう意味なのか。天皇を愛することなのか。無謀な戦略で若き兵士たちを死なせたのは、まさにその愛ではなかったのか。現在もそんな愛のために、強き権力者の暴力によって教師としての職を奪われてしまうような人民がいる。この国に自由民権が実現するのは、いつになるのだろう。


今日のビデオ:北海度?

17 August 2008

汽車に乗ったのだ

ナチの迫害からユダヤ人を助け、「日本のシンドラー」と呼ばれる樋口季一郎は、淡路島の生まれだという。淡路島と聞くと、ぼくはむかし母から聞いた話を思い出す。母の母親(つまりぼくの祖母)の親戚に、淡路島の大地主だった者がいたらしく、村長だったのか町長だったのか何者だったのかよく知らないけれども、かなり名の知られた人であったようだ。きっと日本のシンドラーもその人のことを知っていただろう。ひょっとして樋口季一郎も赤の他人ではないような気もする。それには理由があるのだ。

母方の親戚を見渡すと、そこにある共通点のあることに気づく。ひとことで言うと、自分の生活を犠牲にしてでも困っている人を助けようとする。そんな性格の人間が目立つのだ。これはわりと最近になって知った話なのだけれど、国鉄がJRに変わろうとしたとき、組合員たちを追い出そうとした経営者側の卑怯なやり方に真っ向から反対して、なんとか組合員を救済しようとして闘ったリーダーの中に、ぼくの母の兄さんが入っていたそうだ。国鉄民営化に反対したために「不良」と決めつけられ職を失った組合員の中には自殺する者もいた。その数は200人を超えたという。

その兄さんという人(つまりぼくの伯父)の計らいだったとおもうけれど、ぼくは子どもの頃に、どこかの線路を走る蒸気機関車に乗せてもらったことがある。機関士の人は全く知らない人だった。でも、今でも覚えているのは、「坊や、警笛を鳴らしてみるかい?」と笑顔でぼくに言ったこと。そして、その直後にぼくは警笛を鳴らすひものようなものを引っ張った。警笛がポーッと鳴った。あのときのぼくの笑顔を見たのは、その機関士であったはずだけど、今のぼくは自分の笑顔が見えるかのように、あの日のことを思い出す。機関士の笑顔も覚えている。

あのときその機関車に乗っていたのは、その日に初めて会った機関士たちだけだったようにおもう。伯父さんも乗っていなかったし、母も乗っていなかった。「この子のこと、よろしくね」みたいな感じだったのだろう。息子の大学入試会場にまで一緒について行かなきゃ心配でしょうがないような現代ふうのママなら、あんなことは決して許可しなかったにちがいない。

母が末っ子だったせいか、ぼくは母の兄姉たちから特別に可愛がられていたのかもしれない。母の姉のひとりに、若くして夫を病気で失ってのち、残されたひとり息子を女手一つで育てたという、キャリア・ウーマンの元祖みたいな人がいる。その伯母というのは、とにかくぼくと顔を合わせると、必ずぼくを抱き寄せて頬にキスをしたものだった。その幼児体験のせいなのか、ぼくは子どもの頃からイヌとかネコとか可愛い動物を見ると、抱きしめて頬にキスをしたものだし、その癖は今に至るまで続いている。吾が愛犬BBCは、その生涯に、どれほどぼくにキスされたことだろう。

ここだけの話、可愛い女の子なんかを見ると、同じように頬にキスをしたい衝動に駆られることもあるのだけれど、ニッポンの社会でそんなことをしたら、まちがいなく「あぶないおじさん」に見られるから、必死にこらえている。バイブルでは「聖なるキス」として、挨拶の際に奨励されているのだけどね。ニッポンでクリスチャンで通すってのは、本当に大変なんだ。


今日のビデオ:My Girl

16 August 2008

金メダルのこと


レスリングの吉田沙保里がまた金メダルを獲得したらしい。実は、ぼくは今回のオリンピック競技をまだ一度も見ていない。というか、3ヶ月前からテレビ番組は何も見ていないとおもう。おそらく平均してぼくがテレビを見る時間は、3ヶ月に1時間もないだろう。子どもの頃には洋画の番組だけはよく見たものだ。それもいつしか見なくなった。映画を愛する者を全く理解していないような編集の仕方に呆れ果てたのがその最大の原因だ(CMを頻繁に入れすぎるとか、まだ映画が終わっていないのに映像の中に予告テロップなどを流すとか)。そして、映画番組のスポンサーには、ぼくが支持できない愚劣な企業が目立つのも気に入らなかった。同じ理由でニッポンの民放ニュース番組はほとんど見ない。

話をせっかく旬の話題になるように始めておきながら、なんだか違う方面へ進んでしまったようだ。ぼくはこのオリンピックというのにも実はほとんど関心がない。腐敗したIOCのこともあるし、表彰式だとかで国歌が流れるようなスポーツ競技は好きになれないのだ。特に「君が代」なんてのは、子どもの頃から大嫌いだった。自分がオリンピック選手になって金メダルなんか取ったら辞退しようかとか、本気でそんな夢を見ていた時期もあったくらいだ。

ウィンブルドンなら国歌を流すようなことをしないから、かなり憧れたこともあった。しかし、あのウィンブルドンにしてもアメリカ人だとかのプロテニス界に支配されているようなもので、ぼくみたいなアマチュアの技術では到底かなわない。本場イギリス人の選手にしてもウィンブルドンで優勝することがなくなったのは、英国ではテニス人口が非常に少ないばかりでなく、テニスをやる人間はたいていアマチュア精神でやってるのが普通で、がむしゃらに頑張って大金持ちになろうなどという意欲がないからだとおもう。

それはともかく、吉田沙保里というレスリング選手は確かにすごい人だ。たいていの国際試合でいつも金メダルばかり取っている。からだが小さいのに、とにかく圧倒的に強いらしい。ぼくなどが相手をしたら、3分もしないうちに負けてしまうだろう。第一、女性とレスリングするなんて、ぼくは想像しただけでも、相手のからだのどこにどう触れていいのかと悩んでしまい、頬がポッと桃色に染まってしまいそう。そういえばむかし、小学校高学年の女の子なんかが、いきなりぼくに向かって「お相撲しよう!」などと言って挑戦して来たことがあった。だいたいぼくは「相撲」と「相模湾」の区別がつかないくらいにニッポンの国技とやらが苦手なのだ。相手が小学生であっても、とりあえずは女性である限り、もう苦手どころの話じゃなくなってしまう。

愛犬が子犬の頃、就寝前によくレスリングをしたものだ。イヌというのはヒトとちがって手がうまく使えないから、口を使うことになる。子犬の歯というのは、すごくとんがっていて、向こうは甘咬みのつもりでもこっちは相当に痛いし、実際に歯形が残ってしまう。半袖のポロシャツなどを着ていたら、傷だらけの腕が丸見えだ。いつか自転車のかごの中に愛犬を乗せて銀座のホコ天を歩いていたとき、若い女性が笑顔で近づいて来て、「咬みますか?」と言った。どこからどう見ても吾が愛犬の場合は人を咬みそうな顔に見えなかったはずなのに、おかしいなとおもったら、ぼくの腕が誰の眼にも明らかに傷だらけの状況にあるのに気づいた。「いいえ、咬みません」とぼくは答えたけれど、余り説得力はなかったかもしれない。


今日のビデオ:Only You
-- Ringo Starr